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「生命」ってのが一体なんなのか、について科学的な観点から言うと、昔の科学者たちは「細胞」だとか言ったんだって。詩人ではないけど、ちょっと詩的に言っちゃう人たちは、「生命」は「人生」だとか「幸福」だとか。
トで始まる哲学者は、そういう「生命」っていうのを「細胞」だとか「人生」だとか「幸福」だとかに当てはめるのは変だと言いました。「細胞」にだって「生命」はあるかもしれないのに、「細胞」が「生命」だと言ってしまうのは変だね、なんて。 「生命」はね、何かで代弁できるもんじゃないの。「生命」は「生命」なの。「1に1を加えて2になる」っていうのをもっと簡単に言ったり書いたりするために「+」とか「=」を誰かが作ったのと一緒なの。「なんだかよく分からんけど、こう、際限ある時間の中で起こる事象やらなんやら」をもっと簡単に言いたくて「生命」て名前を付けたの。っていうのをトで始まる哲学者が言ってた。 「生命」は生命!「幸福」は幸福!「細胞」は細胞!「人生」は人生!それ以外の意味は含まん。「生命」=「人生」なんていう関連付けをしてしまうと、何故自分がそんな関連付けをしてしまうのか、っていうので悩む。そんで、一度決め付けた「生命」=「人生」っていう関係からはみ出す出来事が起こった時のパニック。例えば「生命」=「鼓動」なんて言っちゃう誰かと出会ってしまったら。 同義語なんてなかったらいい。 トルストイの人生論を17歳が読むと、このぐらいのことしか理解できない。一体どうすれば、もっと深く理解できるんだ。てか、最後まで読まんと。 そうだね、終わったね。 あれからというもの、君の思い出も背負ってた。寂しいけど、ちっさい役割を担ってる、という感覚。すごい大事やった。 帰ってくることで、君から映る自分の魅力が失せる気が少ししてた。近ければ良いと思っていたのは、遠くにいたからで、近づけば、遠くにいることの貴重さを知る。 逸脱したままで、いつまでもPAR AVIONの距離にいたのなら、あるいは、もっと君には。あー、言葉の限界。 これからものすごい速さで色んな事が変わって(前進するか後退するかは置いといて)徐々に何でもない自分になってしまっても、忘れないよ、忘れずにいる。まだ背負ってるよ。だから、まだ君には。おー、言葉の限界。 以上、完全なる私信でした。
お腹すいた。
昨日から風邪引いた感じです。熱が出てたので、ひたすら寝て、今さっき起きたよ。17時て。なんか食べるものないかと思ったけど、なにもないんだな。作る気力も今は無い感じです。 親が帰国するのが30日。予備校始まるのが29日。ああ、早く日が経たないかな。 にしてもお腹すいた。頭がクラクラする上に、体がダルいよ。 ハナレグミの「音タイム」っていうアルバムをまたレビューしたいと思います。
ここから動き出すのは疲れる。波風立つのを嫌う人ばかりやから。
けど遠慮してるのとは違う。楽がしたいだけなのかもしれないな、と思う。本当に動き出せる人は、波風なんて気にしないんだろうな。結局人のせいにしてんだろう。 どこからどこまでが自分の行ける範囲なのかが知りたい。目指す先が本当に今の自分の足で行ける距離なのか。精神さんは足が不自由やから、体っていうメカに乗りこんで、自分の行きたいところへと運転する。けど、精神さんは、もしかすると、自分の足で歩いたことがないから、どのくらいが、このメカの移動の限界なのか予想できないのかもしれない。 精神さんは一体どこへ行きたがってるのか。それを知りたい。というより、知らないと疲れてしまう。
火曜日から地元、兼ばあちゃんちに行って来ました。やっぱ地元は好きだな。全部が馴染み深くて、6年間の空白なんて感じさせない。
地元の小学校からの友達にも会えた。物事に対する考え方が様々で、1対1で話すのがすごい良かった。5年生の頃から本当に性格がシンクロしてたアイゴーとは、ラグビー場でお互いギター持ってきて、夜中弾き語りして、王将で内面的な話をしたよ。 人は自分がキレイであるために勝手だ、っていう事と、人生は常に準備不足だ、っていう話。はたから見れば斜に構えた17歳にしか見えないと思うけど、確かに自分たちは真摯に毎日を生きる方法を模索してる。いつか無駄ではない一日が訪れるのではなく、自分から作っていけたらいいな、っていうささやかだけど、難しい夢を持ってる。 色々考えて、葛藤し通して、それでも上手く物事が運ばない。っていう「思い込み」がある。そういうとこがアイゴーと似てる。周りには、どんなにありきたりな悩みで苦しんでいても、最終的には多くの人に好かれている人がいるよな、って。そんな人が羨ましい。必要以上に自分を「無力な人間」に仕立て上げてんの。 けど、どんなにうちらが思い悩もうが、所詮は17歳の悩みだよな、っていうオチなんやけどね。さて、ギター弾こう。
サヨナラCOLOR/明日へゆけ
![]() SUPER BUTTER DOG 永積タカシ / 東芝EMI ISBN : B0009OAVBU 個人的な評価 : ★★★★★ 「サヨナラ」とタイトルには付いてるけど、実際に場所を変えるという意味合いでの「旅立つ」という解釈だけではない気がする。 『そこから旅立つことは とても力がいるよ 波風立てられること きらう人ばかりで』 周囲の目を気にする事は間違いじゃないと思う。周りとの関わりがスムーズであることは、生きていく事がスムーズになることに繋がる気もする。けど、周囲を考慮してるという自分の姿を口実に、本当は前に進むのを後回しにしてるだけなのかもしれない。 『でも 君はそれでいいの? 楽がしたかっただけなの?』 この問いかけは押し付けがましくない。だからこそ、自分自身の身の振りを考え直させる力を持ってると思う。 『僕をだましてもいいけど 自分はもう だまさないで』 そう、騙してたんだなー。本当に。物分りのいいフリをして、人を騙してたのかもしれない。そして人を騙し続けるうちに、本当は単に「楽がしたかった」自分を隠していたのかもしれない。 そして「サヨナラ」という単語が出てくる。 『サヨナラから はじまることが たくさん あるんだよ 本当のことが 見えてるなら その思いを 僕に見せて』 これで分かる。 「楽がしたかった」自分に決別、「サヨナラ」する。けどその「サヨナラ」は「はじまり」である。「本当のこと」が何を指してるのかは、人それぞれこの歌を聴いていて、思い当たる節に当てはめるんだと思う。それは「楽」とは反対にある、何かとてもしんどいこと。 この歌を聴いてまず初めにとてもハッとさせられた。ああ、自分は周囲に何か言われるのが嫌だから、スムーズに物事が上手くやれるように取り繕っていて、その上「楽がしたかった」んだなあって。けど、成し遂げたいと思うことを達成するには、必ず多かれ少なかれ苦痛が伴う。それを「楽」という形で逃げるのではなくて、「楽」から「サヨナラ」して、新しく始めるべきなんだなって。 けど、そんな簡単にはいかない。やろうと思って出来る人は、やろうと特別に意識しなくたって出来る人なんじゃないかなってこの頃ちょっと思う。分かってるのに、いつまで経ってもぐずぐずしてるのは、本当に「やろうと思って」ないだけなんだろうなーって。 自分は今そこにいる。周りに「やる」と言っておけば、波風立たない。周囲が思い描く自分でなくてはならない。(それが何でかはまだよく分からないけど)けど、実際の自分は本当に「やろうと思い」切れてない気がする。いつだって、ぶらぶらしてる。 この歌を聴いて、何か思い当たる節があるなら、それは今自分がやらなくちゃいけない事を前にして、「楽」でいたいから、って周りを騙してるって証拠です。 ああー、また長くなったな。しかもまとまらないなあ。
「じゃあ ここからここまでください」
ショーケースのケーキを人差し指で撫でる 一緒くたにしてしまうと 何故か ひとつひとつの価値を失ってしまう 「個を見ろ 全体において 意味は漠然だ」 そんな声 とても透き通ってた じゃあ君という奴は もしかして 比較されても 泣かない自信があるのか ボクは無難です 全部を求めていれば それなりに 格好がつくので たとえば 嫌いなケーキが全体に含まれていても たくさんのうちのひとつなんて 大したことないや と 言いのけてしまえる ボクは比較されると 泣きます 嫌いなケーキを 投げつけて 泣きます
幸せについての本がやたら多く書店に並んでるなあ。100万部、12万部、8万部。その本を買えば「幸せになれる」んじゃなくて、「幸せになれそうになる」んだろうな。
科学的に、心理学的に、文学的に、あらゆる方面からの幸せ。それにしても、書いてる人は幸せなのかなあ。 そう思うと、なんだか嫌になったよ。嘘を書いてるわけではないんだろうけど、それが万人にとっての幸せへの手引きになるのかというとそうじゃないもんね。 けど、誰も幸せがわからんから、そういう本を見るとやっぱり手に取りたくなるんだろうなあ。「確実に幸せになれる」なんてキャッチコピーに、本当に人を幸せにしたいっていう意図はないんだろうね。そのキャッチコピーをつけることで本が売れて、製作者側が幸せ、ということか。 うむ、誰かの幸せのためにお金を払うのはイケスカン。 だから、こっそり本を裏に向けて置いて帰ってやったさ。
日本。にほん、にっぽん。にーほーん。
コンビニで思いっきり「こんばんわ」と言ってしまった。フランスと違ってコンビニで(というより、大体の店において)入りの挨拶はしない。これ今日から10回ずつ唱えて寝る事にしよう。 完全に時差ぼけ。飛行機の中でいっこも寝られへんかった。いつもは爆睡やのに。それというのも、隣に座った小さい赤んぼを抱えたツアー親子がいて、その赤んぼが泣く泣く。啼く。泣き喚く。たぶん12時間の8割ぐらい泣き続けてたんちゃうかな。そりゃ寝れないわ。けどなあ、強く言えないなあ。お母さんものっそい謝ってはったし。 フランス語の勉強が手につかない。18日の仏検大丈夫かな。受かるか微妙です、正直。去年落ちてるし、今年は受からんと顰蹙きわまりないんやけど、なんというか、本番に力が出ないタイプなんよね、昔から。 今日は友達と晩御飯に回転寿司に行った。めっちゃ気が合うことが発覚。小学校の頃からすごい友達やって、メールだけで全然会ってもなかったから緊張したけど、全然久しぶりの感じもしない。むしろ、すごく落ち着いたなあ。フランスで作ってた友達とはまた違う。というより、あれが友達やったのかどうかも疑いたくなった。 ああ、こうやって「良いもの」で上塗りされてくんやろうなぁ。
帰ります、と言うのではなく、行きます、という感じ。大丈夫、行ける。
ここで出会った数少ない人たちと、例えばこれから先会う事がなかったとしても、自分は歩いていかないと駄目や。けど、忘れへんよ、記憶は上積みして見えなくなっていくのではなくて、隣に並べて、いつでも確かめ直せる。多少記憶の内容が変わってしまうのは仕方ない。同じ場所でずっと日に当たり続けると、色あせてしまうものです。それを受け止めるだけの、余裕が今の自分にはある。ないわけがない。 やから、大丈夫。「またね」と言われた記憶を持って、どんどん新しい人と出会っていけばいい。 よし、行こ。さよならフランス。
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